2013年12月12日木曜日

お父さんの絵、借りた着物と水仙と

 知り合いが、行きつけの店に絵をあげたのだと話していた。亡くなったお父さんの気に入っていた絵なのに。もったいない、と言うと、この絵は、誰かに見てもらわないと意味がないから、と、ちょっとだけ寂しそうにその人は笑った。

11月、花展の会期中着物を着て過ごした。それは、私に着物の着方を教えてくれた人が貸してくれた、「私が20代の頃着てた着物」だった。着物なんか借りられないと言うと、その人は本当に素敵な笑顔で言った。「着物が喜んでるわ」。多分笑う場面だったのだろうけれど、涙が出そうになって困った。

 水仙をいけると、いつも誰かに見てもらいたくなる。多分、私は水仙がとても好きなのだと思う。






























生花 五行格

2013年12月1日日曜日

小雪

――冷ゆるが故に、雨も雪となりてくだるがゆへ也。
新暦十一月二十二日から十二月八日頃

「あ、雪」

 寒いのは苦手なのだけれど、はらはらと初雪が降りてくるのを見つけると簡単に嬉しくなってしまう。
そしてつい、誰かに言いたくなってしまう。それは例えば、満開の桜にもいえることかもしれない。

 季節は、一秒ごとに私たちのすぐ傍を通り過ぎて行く。そのほとんどを見過ごして生きている。でも、ほんのわずかな時間だけ、私たちの瞳に映る、手を伸ばせば触れることができる。誰かと分かち合いたくなる幸福な瞬間。そういう幸福な瞬間を二十四集めた、それが、「二十四節気」なのかもしれない。










終わった秋の中から、冬の欠片を見つける。
終わった季節の中には、いつも次の季節の気配が混ざっている。

そういうイメージで、落ち葉と白いバラをいけてみました。

2013年11月22日金曜日

立冬

――冬の気立ち初めていよいよ冷ゆれば也。
新暦十一月八日頃



 冬が好きだと思えるようになったとき、少しだけ大人になったなと思った。

 ある冬の晩、お酒を飲んで店を出た。外に出た瞬間、耳まで温まった体が一気に冷気に包まれた。冷えた空気が気持ち良かった。吸い込むと、体の中まで洗い流される気がした。何気なく空を見上げると、目が覚めるくらい、たくさんの星が散らばっていた。「空気が澄んでいる」、「空が高い」。単なる言い回しだと思っていた言葉が、寒さと一緒に体にしみた。

 立冬から立春までの日々を、日本語で「冬」といいます。









百合と椿。

百合は初夏のお花ですが、澄んだ空気を表現したかたのと、すっとした立ち姿が「立冬」に似合っている気がして、あえて使ってみました。 




カオスと花

 「カオスの間」というギャラリーにばら撒かれたものたち。誰かが使っていた時計、遊んだであろう人形、カメラ、もはや何に使うのかもわからない機械。でもそのすべてに、過ぎ去ってしまった時間が染み込んでいた。 

 ちょっと怖かった。何が怖いのかわからなかった。使っていた人たちが、とっくにこの世にいないことだろうか。たぶん、「時間」を目の当たりにしてしまったからだと思う。もとに戻すことのできない時間の塊に、触れてしまったみたいで恐ろしかった。

 でも同時に、ここに花をいけたいなと思った。枯れて行くことで、なくなって行くことで時の流れを感じさせる花と、存在することで時の流れを感じさせる古いもの。

 時間を見失ってしまうような、不思議なおとぎ話みたいな作品ができれば良いなと思って作り始めました。 今回の展示では、気に入ってくださった方もそうでない方も、「キレイ」だけじゃなくて、しっかり感想を言って帰ってくださいました。そのどちらをも糧に、次回の展示に向けて準備を始めたいと思います。

お忙しい中見に来てくださった皆さま、
手伝ってくれた友人、
応援してくださった方々、

本当にありがとうございました。フラワーエキシビジョン「鏡花水月 カオスとコスモス」は無事終了いたしました。



2013年11月10日日曜日

フラワーエキシビジョン 「鏡花水月 カオスとコスモス」



第三回目のフラワーエキシビジョンでございます。
あじさい、バラに続き、2013年の秋は、コスモスの物語をいけさせていただきます。


日本人が「秋桜」といって愛する花、コスモスは、ギリシャ語で「秩序」を意味します。

混沌(カオス)という名のギャラリーに、秩序(コスモス)という名の花はとてもよく似合うように思いました。ダーティアンドビューティフル。正反対のものを並べるから、お互いに引き立て合うのでしょうか。それとも他の理由があるのでしょうか。「秋桜」と「秩序」。二つの物語と共に、コスモスの魅力をお楽しみいただけましたら幸いです。


「カオスの間」という怖くて美しい不思議なギャラリーと、そこにあるコレクションのすべてを全面に使わせていただいて行う、花のインスタレーションです。

日時;11月15(金)~17(日) 12:00-21:00
西村在廊日
 15日;14時~
 16日;~19時
 17日;少し抜けますが、夕方からは在廊

場所;カオスの間
http://goo.gl/maps/MNZPf

東山三条から、東へ二つ目の信号の白川(※)を北へお進みください。「初音鮨」と看板のあるビルの二階です。

※地下鉄東山駅①番出口を出て、すぐ左手の細い道です。


2013年11月4日月曜日

水神

 11月2日~10日まで、「高瀬川彫刻展」に出品させていただいております。


 9月、鴨川が、荒れているのを初めて見た。「鴨川の水、双六の賽、山法師」って聞いたことあるけど、生まれてからずっと京都に住んでいるけど、鴨川の水がこんなに濁っているのもかさ高くなっているのも初めて見た。


 その日私は、土砂降りの五条大橋に立った。橋の真下まで水が溢れていた。川幅が異様に広くてぞっとした。狂ってコントロールを失った水が、それでも敵意をもって押し寄せて来ているみたいだった。西岸も東岸も、ごうごういいながら呑み込まれていた。昔の人が見たらきっと、上流で水の神様が怒っているに違いないと思っただろう。普段、さらさらと優しく流れる鴨川を眺めているとき、カミサマ、だなんて、思い出したこともなかった。


 部屋の中に一輪の花をいけて、そのたった一輪から、そこにはないはずの自然の景色や宇宙の広がりを感じることが生け花だと思う。目に見えないものを、花から感じることが。川沿いには立派な桜の気が植えられている。美しさだけを求めてしまったら、たとえどんな作品を作ろうがそこで生きている桜に勝つことなんてできない。でも、桜がそこに生えているだけでは見えないものに、想いをはせることができる作品なら、高瀬川の中にいける意味があるんじゃないかな、と思った。水の神様を、想わせるような作品にしようと思った。


 もし水の神様、龍がそこにいたら、木々は吹き荒れる風に舞い、落ちた鱗がきらきら光って、そこからきっと、見たこともないような青い花が咲くんだろう。










「水神」 西村良子

「第7回 高瀬川彫刻展」 彫刻のチカラ
2013年11月1日~11月10日
三条から四条までの高瀬川中

私の作品は、三条通りを少し南へ下がったところの、材木橋の近くに展示させていただいております。

霜降


――露が陰気に結ばれて、霜となりて降るゆへ也。
新暦十月二十三日頃

 雨も雪も露も霜も、基本的には同じ現象のことを言う。空気の温度が下がって、水蒸気が目に見える形になったもの。でも日本語では、雨や雪には「降る」と言い、露や霜には「降りる」を使う。

 寒い朝にだけ、ふわりと空から舞い降りる。姿のないまま静かに降りて、葉っぱに触れたほんのわずかな時間だけ、白いドレスをひるがえす。

 起きるのが億劫な、冷えた朝にだけ見える一瞬の夢。自然を愛でるということは、そういうことなのだろうなぁと思う。


















紅葉し始めた夏ハゼに、霜を思わせるふんわりしたホワイトキャットを添えました。

2013年10月21日月曜日

寒露

――陰寒の気に合って、露むすび凝らんとすれば也。
新暦十月八日頃

毎朝8時20分に家を出る。家を出た瞬間の温度が少しずつ寒くなってきたように思う。私が寝ている間は、もっと冷えていたのだろう。

空気が冷えると、土や植物の上に水滴ができる。温度が下がらないと見ることができないこの現象を、「寒露」という。だから朝、植木に露が降りているのを見つけたら、あなたがまだ起きる前の、冷えた空気を感じることができる。

今年は、「寒露」というには少し暑かった。でもその言葉が教えてくれる。私たちがまだ生まれる前の、「今朝」の空気の冷たさを。



2013年10月16日水曜日

秋分

――陰陽の中分となれば也。
 新暦九月二十三日頃



 昼の長さと夜の長さが同じになる日、
そしてその日を境に、夜の時間が長くなっていく、それが「秋分」。

 道教の「対極図」は、黒と白が半分ずつ。この勾玉のような形は、闇は常に光に向かい、同時に光は常に闇に向かっている姿を表している。秋分に相応しい図だと思った。夜と昼がそうであるように、夏と冬がそうであるように。そのつながりを「水引」草で表し、季節の花である彼岸花をあしらった。

 今日から夜が長くなる。忙しい日々の中、決して大きな変化ではないけれど、耳を澄ませば冬への足音。「秋の夜長」の言葉通り、月のきれいに輝く下で、あなたは何を想いますか。耳を澄ませば、虫の鳴くのが聞こえますか。





2013年10月15日火曜日

On the Way of Seasons


いつも過ぎてから振り返る。
 
気が付くとこんな時間。
気が付くともう夏も終わり。
気が付くと、あれからもう一年。

移り変わっていくものは、さらさらと手から零れて行く。
音を立てずに、留まることなく。
カラの手のひらを見て初めて気が付く、
そこにあったはずのものに。
その時間は、その夏は、もう二度と巡っては来ないのに。

 
 かつて日本で、「二十四節季」という暦が使われていた。大地の暖かさや水の冷たさ。陽の傾きが一年かけてもたらす変化を少しずつ読み取って、美しい、二字の漢字で表した。
 
 過ぎて行く時間の中で私たちは無力かもしれない。零れ落ちる砂を止めることはできない。でも、零れ落ちて行く姿を愛でることはできる。

 それは、日本人の季節の感じ方。二十四の、季節の途中。



三条高倉、「日常茶飯」さんに、二十四節季にちなんだお花をいけさせていただいています。
https://www.facebook.com/nichijosahan



2013年8月6日火曜日

誰かの一行が誰かの一生を変えるかもしれない


 初めてお小遣いを出して本を買ったのは、何も考えていない中学生のときだった。

 ふと本屋に入ると文庫本のフェアーをやっていた。今でも毎年やっている、夏休みになると、文庫本を出版社ごとに小高い山にして積んでいる。いつもの本屋の、入り口に一番近い山は新潮文庫だった。マンガ売り場の二階に上がろうとして、目にとまった黄色いのぼり。「新潮文庫の100冊キャンペーン」。

 黄色い冊子を手にとってみる。それは、結構子供心をくすぐる冊子だった。100個分のマークの枠と、マークの数のだけ豪華になっていく賞品。カバーの裏についている新潮文庫マークを集めていくらしい。当時の100冊目の商品は、「文豪リストウォッチ」だった。読んだら必ずもらえるんだよとパンダがささやく。なんとなく見たことあるおっさんが、クールに頬杖をついている白黒写真に文字盤がはりついていて、なんかもうめちゃくちゃカッコ良かった。それでその日は、マンガじゃなくて「こころ」を買った。慣れない活字を一生懸命読んだ後、角のマークを切り取ってシートに貼るときの、誇らしいこと。中学生の私は本の内容よりも、その感動のために文庫本を買った。でもそのおかげで、お金を出して本を買う習慣が身に付いた。そのおかげで、春樹もホームズも好きになった。

 今年の新潮文庫のキャンペーンは、「ワタシの一行」。著名人やそうでない人の心に残った一行が、キャッチーなイラスト付きで文庫の帯になっている。誰かの人生が変わった文章を、帯にするなんてずるい。今年もどっかの中学生が、きっとその帯に騙されてる。

マンガしか買ったことのないアホな中学生を、文学の世界へ引き込むこと、心に刻まれる一行に出会うこと。「もの」じゃなくて、「習慣」を売るということ。

西村花店は「花」ではなくて、「花を売る習慣」を売る花屋を模索したい。


ワタシの一行
https://1gyou.jp/#

2013年7月8日月曜日

真夜中の銭湯に響くLet it be



行きつけの銭湯の主人はロックファンだ。
「普通」の銭湯と同じように、普段は脱衣所の真ん中でテレビがつけっぱなしになっている。でも人の少ない夕方行くと、気まぐれにレッドツェッペリンが流れていたりする。ロバート・プラントの歌声の下で、近所のおばちゃんたちが世間話をしながら服を脱ぐ光景。午前1時の閉店十分前になると、蛍の光の代わりにビートルズが流れる。


そこで流れるのは、大抵 ob la di ob la da とか、cant buy me love とか明るい曲ばかりなのだけど、その日、DJ風呂屋の主人は、なぜか別のアルバムを選んだ。


その晩はいつもより客が多く、脱衣所にはまだまだたくさん人がいた。男湯からも、大学生の話し声が聞こえてきた。ビートルズはいつものように、12時50分から流れ始めた。さて帰ろうかと荷物をまとめていると、あのあまりにも有名なピアノの前奏が聞こえてきた。不意打ちにちょっと胸が震えた。

昔、写真を撮る友人が私に聞いた。「なんでも言葉で説明できると思う?」、「できると思う」、迷わずにそう答えた。友人は言った。「僕はできないと思う」。「なんでも言葉で説明できたら、写真は?絵は映画は、一体なんのためにあるの」あぁ、その通りだと思った。なんでも言葉で伝えられたら、写真は絵は映画は、花は。

Let it be という曲は聞くたびに、言葉が最強ではない可能性を信じさせてくれる。私はこの曲が生まれた国とは違う文化の中で生まれ、違う言葉を話し、違う宗教の下で育った。歌詞は、訳をみてさえピンとこない。でもそのメロディは、本当に美しい。だって午前1時、風呂上がり。前奏が流れ、歌詞が始まるまでに、客の話し声は聞こえなくなった。不自然にしんとした夜中の銭湯。バンドが解散して何年も経ってなお、遠いアジアの島国の銭湯に、偶然集まった人々を魅了する。


人は、言葉でつながるって思う。でも、言葉じゃないものでつながることができたらいいなって、同じくらい思う。午前1時、風呂上がり。さっさと帰ればいいのに誰も扉を開けなかった。乾いた髪を拭き続けた。誰も何も言わなかったけど、みんなこの曲を聴いていた。




2013年6月18日火曜日

虹の保存場所

それほど好きでもなかった写真をそれなりに撮るようになった原因は、ポケットの中のスマートフォン。

きれいに咲いた花を見つけたらすかさずスマホ。指一本で画面に触れて、ちょちょいと加工すればフェイスブックにアップ。

写真をみんなに見せるつもりで街を歩けば、たいていは何か見つかる。レンズを向ければ、背景になっていた草花が浮かび上がる。「いつでも撮れる」が当たり前になってから、小さな感動も見逃さずに済むようになった。「みんなにばらまける」が当たり前になって、もっと小さな感動も掬い取るようになった。いつ撮ったのかどうして撮ったのか、思い出せない写真がメモリの中に積み重なる。

19歳のとき、カナダに一ヶ月ほど遊びに行った。行って一週間ぐらいしたある日、ふざけて走ってカメラを落とした。後悔したのはすこし日が経ってからだった。

雨上がり、トラックを運転していた友人が言った。「リョーコ、見て」。嬉しそうに、フロントガラスの向こうを指差す。四方を山に囲まれ、千年の歴史も現代の文化もその中に全部詰め込んだ、私が生まれ育った街の空は狭い。その50倍ぐらいあるカナダの空めいっぱい、視界が足りないとさえ思えるぐらい、大きな虹が架かっていた。トラックの窓から体を乗り出し、風を受けながら虹を見上げる。しまった、と心の底から思った。カメラがない。忘れたくないと思った。まばたきせずに見つめていると、風を受けた目から涙が零れた。

写真にならなかったあの景色は誰に見せることもできないけれど、6年経った今でも、虹を見るたびに思い出す。あの時やがて薄くなった七色は、水色に滲んでカナダの空に溶けていった。写真に撮ることができなかった後悔、友人の笑顔、吹き抜けた風。あぁ、どっちにしろ記憶にしか残らないのだ。だからこそ特別で誰かに伝えたくて、その手段が他にないから写真に残したがるのだろうか。花みたいだなとふと思った。感動と記録の追いかけっこ。

SDカードのメモリは私の記憶じゃない。写真のおかげでせっかく拾い集められるようになった感動を、写真に撮って、安心して忘れてしまったら意味がない。それじゃただ、この薄っぺらい箱に踊らされているだけだから。

2013年5月30日木曜日

主人公じゃない女の子の恋



少女マンガを読むと、主人公じゃない女の子のことばかり好きになる。

美人じゃないけど純粋で憎めない主人公と、とびきり美人で計算高い、主人公の邪魔ばかりする女の子。「枯れやすいから、薔薇は棘で身を守る」。ある少女マンガで、主人公じゃない女の子が取り上げられた回のタイトルは少し意味深だった。

この間久しぶりに、バラの棘で指を刺した。小さい棘だ、大した傷じゃない。でも今も抜けずに、思い出すと指先が小さく痛む。

だけどこの棘はバラの本当の天敵、虫や動物の前では何の役にも立たない。彼らはそんなのお構いなしに、きれいな花を食い散らかす。私たちだってその棘だらけの茎を触らなくても、美しい姿を楽しめる。

きれいなバラにはたくさん人が寄ってくる。愛でて賞賛する。それは同時に、たくさんの人が去っていくということ。棘は、その痛みに耐えられない言い訳みたいだと思った。「当然じゃない、私には棘があるんだもの」。

『カノジョは嘘を愛しすぎてる』の、主人公じゃない女の子は、茉莉。彼女は誰よりも美しい顔と声を持つ歌姫で、それらを失うことを、それらを愛してくれる人を失うことを執拗に恐れる。純粋で若くて才能のある主人公に嫉妬する。ひどいことを言って傷つける。でもバラの棘みたいに、痛々しいのは見た目だけなのかもしれない。皆を傷つけるふりをして、誰よりも傷ついているのはきっと彼女。言い訳の下で願っている。「棘があるのよねぇそれでも、それでも私を愛してくれる?」。

想っても想っても報われない、主人公じゃない女の子の恋。痛々しくて悲しくて、脆くて切ない見ていられない。読んだ後、小さい痛みがでもいつまでも、しくしくと胸を痛め続ける。いつまでもたっても、抜けないバラの棘みたいに。




バラ
冬とクリスマスに奪われて、年中きれいな姿で花屋にいるものだからいつもすっかり忘れてしまうのだけれど、バラは初夏の花だ。
桜が終わりつつじが終わるちょうど今頃、玄関先の小さい鉢植えで、大きい庭でアーチになって、ミュージカルみたいに街中で、色とりどりにほころびだす。
バラを育てるのが大変な理由の一つに虫がある。放っておくと葉っぱも花も食い散らかされる。






カノジョは嘘を愛しすぎてる 11TH song (Cheeseフラワーコミックス)カノジョは嘘を愛しすぎてる 11TH song (Cheeseフラワーコミックス)
posted with amazlet at 13.05.30
青木 琴美
小学館 (2013-03-26)

2013年3月23日土曜日

精神病院に花を届けたときの話


それは、「戦前の町医者」が、そのまま置いてけぼりにされたみたいな場所だった。色褪せた合皮の長椅子と、「受付」と書かれた木造の小部屋。古くなった窓枠からにじむ日差しが、部屋全体を柔らかい光で満たしている。誰かの記憶に迷いこんだみたいだった。

足音がして我にかえる。看護婦さんが来て、受付の前に置かれた台に花をいけてくれと言うと、忙しそうに消えていった。彼女の行き先に、部屋着姿の男の人。驚きも喜びも、何の感情も読み取れない表情で、まっすぐに私を見つめていた。会釈をしたけれど、彼の瞳に私は映っていなかった。虚ろな黒い二つの光が、ただこちらを向いているだけだった。あぁ、傷つけるものが何にもないのだと思った。息が詰まった。そこでは時間は止まってしまうのだろうか。

花をいけた。精神病院という場所に。一秒ごとに枯れていき、私たちに「時間」の存在を突きつける「花」と、それが止まったような場所。花は止まった時間を動かしはしなかったけれど、なぜだかそこに見事に収まった。完成された絵画や写真を見ているようだった。色褪せた病院のロビーと優しすぎる光、いけたばかりのあざやかな花。こんなに花の似合う場所は、他にないんじゃないかとさえ感じた。

花屋にいると、満開の花を摘んでしまうことがある。あんまり咲いてると売れないし、明日枯れてしまうなら今取っておかないと「二度手間だから」。

働き始めたばかりで花の名前なんて一つも知らなかった頃、先輩たちがそうやって花の掃除をしているのを見て、なんてことを!と思った。花の名前も知らないくせに、くってかかって怒られた。忘れてしまっていた。あのときに比べれば知識も技術も手に入れて、花を好きになったはずなのに。

時間の進まない場所で、「今」を見た気がした。ちょっと咲きすぎだな、とか、このつぼみ開くと良いのにとか、やっぱり思う。だけど今、過去や未来と比べることなく、この瞬間をこそ愛でていたい。

どうか彼らの瞳にも、この花が映りますように。

2013年2月22日金曜日

西村花店


これは、西村花店という花屋のブログではなく、「西村花店」という名前のブログです。

この文章を読んで、あるいは私がいけた花を見て、あぁ、花を飾るのも悪くないな、ちょっと花でも買ってみようかな、という気になってもらえれば、という想いから、「花店」を名乗って活動しています。

日記と、花展の案内を掲載させていただきます。よろしければ、お付き合いくださいませ。

冬に咲く花が好き。

冬に咲く花が好き。

多くの植物が紅く染まった葉を落とし、静かに寒さをやり過ごすなか、緑の葉を絶やすことなく花芽をつける。北風に吹かれる冷え切った葉。この花たちは、冬という季節しか知らない。空がどこまでも高く、冷たくて澄み切った世界しか。

不純なものが、何にも含まれていないという気がする。丁寧に丁寧に作られた、薄いガラス細工のような。硬くて握りつぶすことはできないのに、簡単に汚して一瞬で粉々にできてしまう。

たくましく、純度が高く繊細な、冬という季節に咲く花たち。好きなのは、自分もこうありたいと願うからなのだろうか。


さざんか
真冬に鮮やかな花を次から次へと咲かす。
街路樹によく使われています。


2013年2月6日水曜日

春も冬も

雨の夜、道路沿いを歩いて帰る。

家の灯りはほとんど消えて、ヘッドライトと街灯が、暗闇の中雨の姿を照らし出す。水の粒が傘をはじく音と、タイヤが水たまりを撥ねる音。永遠に続きそうな、暗くて寒い夜だった。

足早に歩いていると、ふと目の端にピンク色。愛想のない街灯の下に、花束が置かれていた。あぁなんてこと、思いながらも覗き込む。

マーガレットと、優しいピンクのガーベラ、スイートピー。柔らかな杏色で包まれて、とても可愛らしい。年下の彼女に贈る誕生日プレゼントのような。

素敵な花合わせ、上手にできている。なのにどうしてこの花束を作った花屋さんは、春の花でそろえてしまったのだろう。冷え切った冬のアスファルト、雨が降りつけスピードを出した車が素知らぬ顔で過ぎていく。

寒い寒いと、毎日文句を言って暮らしている。いつも忘れてしまうのだ。巡る季節を感じられることはこんなにも、幸せなのだと。