2013年6月18日火曜日

虹の保存場所

それほど好きでもなかった写真をそれなりに撮るようになった原因は、ポケットの中のスマートフォン。

きれいに咲いた花を見つけたらすかさずスマホ。指一本で画面に触れて、ちょちょいと加工すればフェイスブックにアップ。

写真をみんなに見せるつもりで街を歩けば、たいていは何か見つかる。レンズを向ければ、背景になっていた草花が浮かび上がる。「いつでも撮れる」が当たり前になってから、小さな感動も見逃さずに済むようになった。「みんなにばらまける」が当たり前になって、もっと小さな感動も掬い取るようになった。いつ撮ったのかどうして撮ったのか、思い出せない写真がメモリの中に積み重なる。

19歳のとき、カナダに一ヶ月ほど遊びに行った。行って一週間ぐらいしたある日、ふざけて走ってカメラを落とした。後悔したのはすこし日が経ってからだった。

雨上がり、トラックを運転していた友人が言った。「リョーコ、見て」。嬉しそうに、フロントガラスの向こうを指差す。四方を山に囲まれ、千年の歴史も現代の文化もその中に全部詰め込んだ、私が生まれ育った街の空は狭い。その50倍ぐらいあるカナダの空めいっぱい、視界が足りないとさえ思えるぐらい、大きな虹が架かっていた。トラックの窓から体を乗り出し、風を受けながら虹を見上げる。しまった、と心の底から思った。カメラがない。忘れたくないと思った。まばたきせずに見つめていると、風を受けた目から涙が零れた。

写真にならなかったあの景色は誰に見せることもできないけれど、6年経った今でも、虹を見るたびに思い出す。あの時やがて薄くなった七色は、水色に滲んでカナダの空に溶けていった。写真に撮ることができなかった後悔、友人の笑顔、吹き抜けた風。あぁ、どっちにしろ記憶にしか残らないのだ。だからこそ特別で誰かに伝えたくて、その手段が他にないから写真に残したがるのだろうか。花みたいだなとふと思った。感動と記録の追いかけっこ。

SDカードのメモリは私の記憶じゃない。写真のおかげでせっかく拾い集められるようになった感動を、写真に撮って、安心して忘れてしまったら意味がない。それじゃただ、この薄っぺらい箱に踊らされているだけだから。