2013年11月4日月曜日

霜降


――露が陰気に結ばれて、霜となりて降るゆへ也。
新暦十月二十三日頃

 雨も雪も露も霜も、基本的には同じ現象のことを言う。空気の温度が下がって、水蒸気が目に見える形になったもの。でも日本語では、雨や雪には「降る」と言い、露や霜には「降りる」を使う。

 寒い朝にだけ、ふわりと空から舞い降りる。姿のないまま静かに降りて、葉っぱに触れたほんのわずかな時間だけ、白いドレスをひるがえす。

 起きるのが億劫な、冷えた朝にだけ見える一瞬の夢。自然を愛でるということは、そういうことなのだろうなぁと思う。


















紅葉し始めた夏ハゼに、霜を思わせるふんわりしたホワイトキャットを添えました。

2013年10月21日月曜日

寒露

――陰寒の気に合って、露むすび凝らんとすれば也。
新暦十月八日頃

毎朝8時20分に家を出る。家を出た瞬間の温度が少しずつ寒くなってきたように思う。私が寝ている間は、もっと冷えていたのだろう。

空気が冷えると、土や植物の上に水滴ができる。温度が下がらないと見ることができないこの現象を、「寒露」という。だから朝、植木に露が降りているのを見つけたら、あなたがまだ起きる前の、冷えた空気を感じることができる。

今年は、「寒露」というには少し暑かった。でもその言葉が教えてくれる。私たちがまだ生まれる前の、「今朝」の空気の冷たさを。



2013年10月16日水曜日

秋分

――陰陽の中分となれば也。
 新暦九月二十三日頃



 昼の長さと夜の長さが同じになる日、
そしてその日を境に、夜の時間が長くなっていく、それが「秋分」。

 道教の「対極図」は、黒と白が半分ずつ。この勾玉のような形は、闇は常に光に向かい、同時に光は常に闇に向かっている姿を表している。秋分に相応しい図だと思った。夜と昼がそうであるように、夏と冬がそうであるように。そのつながりを「水引」草で表し、季節の花である彼岸花をあしらった。

 今日から夜が長くなる。忙しい日々の中、決して大きな変化ではないけれど、耳を澄ませば冬への足音。「秋の夜長」の言葉通り、月のきれいに輝く下で、あなたは何を想いますか。耳を澄ませば、虫の鳴くのが聞こえますか。





2013年10月15日火曜日

On the Way of Seasons


いつも過ぎてから振り返る。
 
気が付くとこんな時間。
気が付くともう夏も終わり。
気が付くと、あれからもう一年。

移り変わっていくものは、さらさらと手から零れて行く。
音を立てずに、留まることなく。
カラの手のひらを見て初めて気が付く、
そこにあったはずのものに。
その時間は、その夏は、もう二度と巡っては来ないのに。

 
 かつて日本で、「二十四節季」という暦が使われていた。大地の暖かさや水の冷たさ。陽の傾きが一年かけてもたらす変化を少しずつ読み取って、美しい、二字の漢字で表した。
 
 過ぎて行く時間の中で私たちは無力かもしれない。零れ落ちる砂を止めることはできない。でも、零れ落ちて行く姿を愛でることはできる。

 それは、日本人の季節の感じ方。二十四の、季節の途中。



三条高倉、「日常茶飯」さんに、二十四節季にちなんだお花をいけさせていただいています。
https://www.facebook.com/nichijosahan



2013年8月6日火曜日

誰かの一行が誰かの一生を変えるかもしれない


 初めてお小遣いを出して本を買ったのは、何も考えていない中学生のときだった。

 ふと本屋に入ると文庫本のフェアーをやっていた。今でも毎年やっている、夏休みになると、文庫本を出版社ごとに小高い山にして積んでいる。いつもの本屋の、入り口に一番近い山は新潮文庫だった。マンガ売り場の二階に上がろうとして、目にとまった黄色いのぼり。「新潮文庫の100冊キャンペーン」。

 黄色い冊子を手にとってみる。それは、結構子供心をくすぐる冊子だった。100個分のマークの枠と、マークの数のだけ豪華になっていく賞品。カバーの裏についている新潮文庫マークを集めていくらしい。当時の100冊目の商品は、「文豪リストウォッチ」だった。読んだら必ずもらえるんだよとパンダがささやく。なんとなく見たことあるおっさんが、クールに頬杖をついている白黒写真に文字盤がはりついていて、なんかもうめちゃくちゃカッコ良かった。それでその日は、マンガじゃなくて「こころ」を買った。慣れない活字を一生懸命読んだ後、角のマークを切り取ってシートに貼るときの、誇らしいこと。中学生の私は本の内容よりも、その感動のために文庫本を買った。でもそのおかげで、お金を出して本を買う習慣が身に付いた。そのおかげで、春樹もホームズも好きになった。

 今年の新潮文庫のキャンペーンは、「ワタシの一行」。著名人やそうでない人の心に残った一行が、キャッチーなイラスト付きで文庫の帯になっている。誰かの人生が変わった文章を、帯にするなんてずるい。今年もどっかの中学生が、きっとその帯に騙されてる。

マンガしか買ったことのないアホな中学生を、文学の世界へ引き込むこと、心に刻まれる一行に出会うこと。「もの」じゃなくて、「習慣」を売るということ。

西村花店は「花」ではなくて、「花を売る習慣」を売る花屋を模索したい。


ワタシの一行
https://1gyou.jp/#

2013年7月8日月曜日

真夜中の銭湯に響くLet it be



行きつけの銭湯の主人はロックファンだ。
「普通」の銭湯と同じように、普段は脱衣所の真ん中でテレビがつけっぱなしになっている。でも人の少ない夕方行くと、気まぐれにレッドツェッペリンが流れていたりする。ロバート・プラントの歌声の下で、近所のおばちゃんたちが世間話をしながら服を脱ぐ光景。午前1時の閉店十分前になると、蛍の光の代わりにビートルズが流れる。


そこで流れるのは、大抵 ob la di ob la da とか、cant buy me love とか明るい曲ばかりなのだけど、その日、DJ風呂屋の主人は、なぜか別のアルバムを選んだ。


その晩はいつもより客が多く、脱衣所にはまだまだたくさん人がいた。男湯からも、大学生の話し声が聞こえてきた。ビートルズはいつものように、12時50分から流れ始めた。さて帰ろうかと荷物をまとめていると、あのあまりにも有名なピアノの前奏が聞こえてきた。不意打ちにちょっと胸が震えた。

昔、写真を撮る友人が私に聞いた。「なんでも言葉で説明できると思う?」、「できると思う」、迷わずにそう答えた。友人は言った。「僕はできないと思う」。「なんでも言葉で説明できたら、写真は?絵は映画は、一体なんのためにあるの」あぁ、その通りだと思った。なんでも言葉で伝えられたら、写真は絵は映画は、花は。

Let it be という曲は聞くたびに、言葉が最強ではない可能性を信じさせてくれる。私はこの曲が生まれた国とは違う文化の中で生まれ、違う言葉を話し、違う宗教の下で育った。歌詞は、訳をみてさえピンとこない。でもそのメロディは、本当に美しい。だって午前1時、風呂上がり。前奏が流れ、歌詞が始まるまでに、客の話し声は聞こえなくなった。不自然にしんとした夜中の銭湯。バンドが解散して何年も経ってなお、遠いアジアの島国の銭湯に、偶然集まった人々を魅了する。


人は、言葉でつながるって思う。でも、言葉じゃないものでつながることができたらいいなって、同じくらい思う。午前1時、風呂上がり。さっさと帰ればいいのに誰も扉を開けなかった。乾いた髪を拭き続けた。誰も何も言わなかったけど、みんなこの曲を聴いていた。




2013年6月18日火曜日

虹の保存場所

それほど好きでもなかった写真をそれなりに撮るようになった原因は、ポケットの中のスマートフォン。

きれいに咲いた花を見つけたらすかさずスマホ。指一本で画面に触れて、ちょちょいと加工すればフェイスブックにアップ。

写真をみんなに見せるつもりで街を歩けば、たいていは何か見つかる。レンズを向ければ、背景になっていた草花が浮かび上がる。「いつでも撮れる」が当たり前になってから、小さな感動も見逃さずに済むようになった。「みんなにばらまける」が当たり前になって、もっと小さな感動も掬い取るようになった。いつ撮ったのかどうして撮ったのか、思い出せない写真がメモリの中に積み重なる。

19歳のとき、カナダに一ヶ月ほど遊びに行った。行って一週間ぐらいしたある日、ふざけて走ってカメラを落とした。後悔したのはすこし日が経ってからだった。

雨上がり、トラックを運転していた友人が言った。「リョーコ、見て」。嬉しそうに、フロントガラスの向こうを指差す。四方を山に囲まれ、千年の歴史も現代の文化もその中に全部詰め込んだ、私が生まれ育った街の空は狭い。その50倍ぐらいあるカナダの空めいっぱい、視界が足りないとさえ思えるぐらい、大きな虹が架かっていた。トラックの窓から体を乗り出し、風を受けながら虹を見上げる。しまった、と心の底から思った。カメラがない。忘れたくないと思った。まばたきせずに見つめていると、風を受けた目から涙が零れた。

写真にならなかったあの景色は誰に見せることもできないけれど、6年経った今でも、虹を見るたびに思い出す。あの時やがて薄くなった七色は、水色に滲んでカナダの空に溶けていった。写真に撮ることができなかった後悔、友人の笑顔、吹き抜けた風。あぁ、どっちにしろ記憶にしか残らないのだ。だからこそ特別で誰かに伝えたくて、その手段が他にないから写真に残したがるのだろうか。花みたいだなとふと思った。感動と記録の追いかけっこ。

SDカードのメモリは私の記憶じゃない。写真のおかげでせっかく拾い集められるようになった感動を、写真に撮って、安心して忘れてしまったら意味がない。それじゃただ、この薄っぺらい箱に踊らされているだけだから。